京野 誠 「ひとつえらぶとしたら」

海と空が交わることはあるのだろうか

自由作文

物置を掃除したら僕の弟の小学生のときの作文が発掘された。

読んでみると、主語がなかったり目的語がなかったり、謎の前提に書かれていたり、とにかく自由。
そう、僕たちの作文はいつだって「自由」だったはずだ。
 
思い返してみると僕たちは作文の書き方というものをきちんと習ったことがないのではないか。今の時代は分からないが、少なくとも僕は作文の時間、国語の先生から思ったことを「自由」に書きなさいと言われた記憶しかない。当時は書きたいことなんてないし、何が「良い作文」のか指導も受けず、漠然と文を書いていたのではないか。
読書が好きな人は文章がうまいという通説はあるものの、それはセンスとして片付けられていたような気がする。
今回見つかった作文を見ても、特徴的な描写が興味深いものの、それは出来事の羅列でしかなく、そこにオリジナルの感想や深い考察など存在しない。
例えば、同じ学年の子どもが書いた作文コンクールの文章を読む機会を与えることはできなかったのだろうか。同じ題材で素晴らしい作文を書く子どもがいるという衝撃を与えられなかったのだろうか。そしてその作文を分解して解説することはできなかったのだろうか。
 
作文という創作活動は、国語の教科書を読む授業とは別物であるべきだ。
どのようにコンテンツを生み出すのか、その表現のレパートリー、技法。細かいことは抜きにしても手段を、道具を知識として与えても良いはずだ。
道具を与えることにより画一的になってしまう懸念はあるかもしれない。しかしその道具を必ず使えということではなく、そこからさらにオリジナリティを模索することはできる気がする。
 
義務教育で作文の指導がないにもかかわらず、多くの人は就職活動でエントリーシートに悩まされる。これはネタ自体の創出もさることながら、それを表現する力も必要だ。私は何人かの学生のエントリーシート添削をしたことがあるが、本当にレベルは様々だ。
本当に大学生が書く文章なのかと疑ってしまうような、もっと前にどうにかならなかったのかと思うケースもままある。
就職の時まで問題にならなかったというのも驚きである。